เข้าสู่ระบบ私は、いつものように駅前の売店で焼きそばパンとコーヒーを買い、出勤ラッシュの波に揉まれながら会社の自動ドアをくぐった。
頭の中には、昨晩の九条の声がこだましていた。 ——底辺には底辺の上がり方がある。 言葉にすると短いのに、やけに刺さる。私のような“持たざる女”にとって、あれは脅しでも慰めでもなく、一つの「現実」だった。
実家も地味な団地、両親も早くに離婚し、母は副業で夜の仕事しながら私を育てた。
奨学金で大学に入り、仕送りのない学生時代もバイトで乗り切った。だから、就職先が「とりあえず潰れない中小企業」だっただけでも、私は運が良かったのかもしれない。
ただ……九条に言われたように、“見た目”に恵まれているとは自分でも思う。 でも、それに頼って生きる女にはなりたくなかった。そう思っていた。いや、そう「思おうとしていた」。
それはきっと——母への反発だったのだろう。
でも今はそんな私情よりも、週末のABCフーズの中間決算のほうが心配だ。
昼休みに給湯室に入ると、コーヒーの香りが漂い、いつも通りの昼下がりの静けさがあった。 ——カチッ。 その音に顔を上げると、給湯機の前に派手な女性が立っていた。「天道さん、ここにいたのね」
声の主は、同僚の窪田カヲリ。
インスタのフォロワーは5千超え。Diorの小さなハンドバッグをさりげなく机に置き、ネイルは今季の流行色で塗り上げられている。
そして手首にはさりげなくシャネルの時計、ヒールの裏からのぞくルブタンの濃い赤色が「私は持ってる女」を醸し出している。
その指先で何度も小物をいじって、それをアピールしているようだった。 正直、こういう“承認欲求を全身で着てる女”は苦手だ。 「ねえ、天道さんて……もっと稼ぎたいと思わないの?」 その唐突な問いに、私は思わずお茶を噴きそうになった。 「え?どういう意味( まさかマルチの勧誘じゃないよね?!)」 内心構えた瞬間、彼女は小首をかしげた。「六本木のLUXって知ってる?」
「知らない……けど、なんか夜っぽい?」
「そう、いわゆるラウンジ系でさ。客として座るだけで、時給数万円。容姿と愛想があればOLでも、夜だけで結構な稼ぎになるよ」「それって……キャバみたいに接客しなくて良いってこと?」
「そう。まあ容姿の面接はあるけど。週2くらいからでOKだし。会員制で、経営者とか一流企業の人たちがお客さんだから、見たことない“ビジネスの世界”にも浸れるのよ……」
「まさか……最近よく聞く“港区女子”ってやつ……?」
「まあそんな感じかな。上客に気に入られたらプラスアルファでもっと稼げるよ。自由恋愛ってことで、法律的にもセーフみたい――」
(だから、そんなに良いモノ買えるんだね……(結局はパパ活……売でしょ)」
「あなたって、|男性社員《おとこたち》に人気らしいよ。せっかく顔がいいんだから“普通にOL”だけやるの勿体無いと思うよ。もうアラサーでしょ?今しか出来ないと思わない?」
私は黙り込んだ。 給湯室の蛍光灯が、そこだけ眩しく感じられた。 女の売り時って……そんなんだから“変わらないん”だよ。「ねえ、 どうなの?天道さん。とりあえず体験てことで店に来てみてよ、もちろんその日もギャラは出るからさ」
「……私、お付き合いしてない人と、そういうのしない主義なんで」
つい小さく言い切ってしまった。嘘ではなかったし、本音だった。 カヲリは表情を変えずに、軽く笑った。 「へえ、案外古風なんだ。せっかくお金持ちとネットワークが広がるチャンスなのに」 その言葉には、軽い侮蔑と含みが混じっていた。「言っとくけどさ、こんな会社にいても、ハイスペックな男になんて一生出会えないわよ」
「まあ、そうでしょうね……」その時なぜか一瞬、三條圭の顔が浮かんだ。
彼以上のハイスペックに出会えると思えないけど—— いやいや、あれは出会いというより…… ただの暇つぶしの相手にされただけ。——勘違いするな、私。
私は何度かうなずきながら、冷蔵庫のドアを閉め、そこから離れるように席に戻った。
ただ席に戻った後も、胸のあたりが重かった。 ——私は母を見て育った。若い頃の母は綺麗だった。銀座のクラブでNo.2だったとか、月に100万稼いだとか。
けど30を超えた頃から生活は荒れ、家に男が出入りし、そいつのせいで借金を背負う羽目になった。 だから私は、何があっても“自分の稼ぎ”で生きようと決めた。——だけど。
その“理想”の代償に、私は何を手に入れた?
多額の奨学金の残債、ブラックなバイト、過労、ギリギリの生活費。そして、親の借金の名義保証人になって、詐欺にまで遭って——
「……私にだって、意地があるんだよ」帰りの電車の中で、小さく呟いた。
夜の窓に映る自分の顔が、少しだけ大人びて見えた。
母を越えたくて、母を否定して、でも結局、母と同じように「金」で追い詰められている。それでも私の“意地”は、まだ消えてない。
誰にも頼らず、自分の頭で考えて、自分の手で掴む——それが、私の選んだ生き方だ。
今なら“女”で稼ぐ方が簡単かもしれない。
でも、私はそれとは別の道を歩きたい。私はまだ、勝負の入り口に立ったばかりだ。
たとえ遠回りでも、たとえ不器用でも。その先に、私だけの景色があると信じているから——。
ブ・ブ・ブ…… その時、私のスマホにメッセージが届いた。【今週土曜日、三條グループ主催の財界パーティに同伴するように。六本木レジェンド倶楽部19:00 ドレスコードはカクテル以上/三條圭』
「え?!三條さんに同伴?私が?」
電車内で思わず声が出てしまう。
どうしよう!六本木レジェンド倶楽部と言えば財界人しか入れない超高級会員制クラブ。
しかも私、カクテルドレスなんて持ってない。
【お誘い頂いて恐縮ですが、ドレスを持っていません/天道美咲】
震える指で慌てて返信する私。
なんて情けない陳情。さすがに正直過ぎただろうか。すると間をおいて再びメッセージが届く。
【では17:00に欅坂にあるメゾンルミナスに寄ってくれ。話は通しておく以上/三條圭】
相変わらず最小限の会話しかしない人だ。
でも、これが私にとって、初めての社交界デビューになる。心音が高まり、胸がしめつけられるようなこの感じ……
社交界が楽しみだからか?それともまさか三條圭にまた会えるから?
その理由を、この時はまだ理解できなかった。土曜日の朝。 目を開けた瞬間、胃の奥が重かった。 眠れなかった。結局、ほとんど。 スマホを手に取る。 昨夜の圭からのメッセージ。 『明日の夜、話がある。19時に、いつもの店で待っている』 九条からのメッセージ。 『大事な話がある。明日、必ず来てくれ』 ——待って。 19時、いつもの店。 20時、九条のオフィス。 あれ、これって微妙にダブルブッキングしてる? 昨夜、返信した時は気づかなかった。頭がぼんやりしていて、確認もせずに、どちらにも『行きます』と送ってしまった。 ——どうしよう。 1時間差。 圭との話が早く終われば、間に合うかもしれない。でも—— 『話がある』 二人とも、同じ言葉を使っていた。 短い話で終わるとは、思えない。 仕事のことを考えれば、九条だ。大富グループへの対策、凛の調査結果——話し合うべきことは山積みだ。 でも—— 副社長室で見た、冷たい目。『天道か。何か用か』という他人行儀な声。 それなのに、向こうから『話がある』と言ってきた。 『もうお前とは関わらない』——そう言われるのかもしれない。 それとも—— いや、期待するな。 まずは圭を優先しよう。 九条には、少し遅れると伝えればいい。 九条にメッセージを送る。 『すみません、少し遅れます。20時半には必ず伺います』 送信。 数分後、返信が来た。 『わかった。無理するな』 いつもより素っ気ない。 ——九条も、何か変だ。 いや、考えすぎだ。きっと。 シャワーを浴びる。着替える。化粧をする。 鏡の中の顔色の悪さを、チークでごまかす。 休日出勤だ。どうせ、見られる相手は限られている。 ◇ 今日もなんとか、仕事を終えた。 土曜は証券市場が閉じているので、株価は公には動かない。 それだけが、唯一の救いだった。 まあ、何も解決はしていないけど。 このまま放置すれば、含み損は週明けには30億に達するかもしれない。 夕方、18時。 タクシーに乗り込んだ。「六本木の——」 行き先を告げようとした瞬間、スマホが鳴った。 圭からだ。「もしもし」『今、どこにいる』 いつもの低い声。でも、どこか——張り詰めている。「タクシーに乗ったところです。これから、いつもの店に——」『店を変える』 ——え?
火曜日、午後2時。 三條グループ本社ビル、28階会議室。 長いテーブルの端に座らされた私を、取締役たちの視線が刺していた。「それで、天道さん。この25億円の含み損について、どうお考えですか」 取締役の一人——名前は覚えていない。五十代くらいの、眼鏡をかけた男性——が、冷たい声で言った。 パサ、パサ。資料をめくる音が、やけに大きく聞こえる。「現在、市場の動向を注視しながら——」「注視? 注視している間に、損失は膨らみ続けていますが」 別の取締役が口を挟む。「素人に600億を任せた結果がこれですか」 ——素人。 分かってる。ついこの間まで、借金を抱えた底辺OLだった。 でも——「三條副社長の強い後押しがあったとはいえ、我々はこの人事に当初から懸念を示していました」「結果的に、その懸念が的中したわけですね」 空調が、低く唸っている。それ以外は、沈黙。 同情ではない。期待でもない。 ——処分を待つ被告を見る、裁判官の目だ。「運用資産の縮小を提案します」 最初に発言した取締役が、書類を閉じた。「現在の600億を、100億まで段階的に縮小。残りは本社の運用部門で管理する」 ——100億。「MISAKIシンデレラファンドは事実上の解体となりますが。天道さんには、部門長など役職を用意しますので、配置転換を——」 ——勝手なことを。原資の200億を600億まで拡大させたのは、私と九条なのに。 ——手柄だけ奪うつもりだ。「お待ちください」 声が出ていた。 自分でも驚くほど、はっきりした声だった。 取締役たちが、私を見る。「この下落は、大富グループによる意図的な攻撃です。株価操作と風説の流布——明確な市場操作の証拠があります」「証拠?」「はい。空売りの異常な増加、関連銘柄との連動した売り圧力、SNSでの組織的な情報拡散——すべてが連動しています」 昨夜、九条と話し合った内容を、そのまま伝える。 取締役たちの表情が、わずかに変わった。「つまり、我々が撤退すれば——大富グループの思う壺です」「しかし、現実に損失は——」「本当に損失ですか? 今この時点で清算したとしても、300億以上の利益が確定しますけど」「……それは」 発言した取締役が口ごもる。隣の男が、気まずそうに資料をめくり直した。「違いますか? 簡単な算
月曜日の朝。 出社して最初に確認したのは、保有銘柄の株価だった。 画面に表示された数字を見た瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。 ——レヴァンスト、前日比マイナス4.2%。 先週から続いている下落が、止まらない。 原因は分かっている。大富グループの仕掛けだ。 あの手紙が届いてから3日。彼らは宣言通り、動き始めていた。 レヴァンスト株に対する空売りの増加。関連銘柄への売り圧力。SNSでの風説の流布。 一つ一つは小さな動きだ。でも、それが積み重なって——じわじわと、株価を蝕んでいる。 大量にポジションを持っている私のファンドには、それがダイレクトに響く。「天道さん」 白石凛の声がした。振り向くと、彼女が資料を手に立っていた。「含み損、20億円を超えました」 ——20億。「対策は検討されていますか」「……検討中です」「そうですか」 凛の声には、感情がない。責めるでも、同情するでもない。ただ、事実を述べているだけ。「取締役会から、説明を求められています。明日の午後、臨時会議が入りました」「……分かりました」 凛が去っていく。 私は画面を見つめたまま、動けなかった。 ——どうすればいい。 構造を見て戦略を組み立てるのは得意だ。でも、持つ側として資産を守る経験も知識もない。 ——そりゃそうだ。最近まで、借金を抱えた底辺OLだったんだから。 分からない。何も、分からない。 ◇ 昼休み。 食欲がなかった。でも、何か口にしないと倒れそうだった。 コンビニで買ったおにぎりを、給湯室で齧る。味がしない。砂を噛んでいるみたいだ。 スマホを見る。 九条からの返信は、まだない。あの夜から、ずっと。 ——何かあったのかな。 画面を閉じる。今は、自分のことで精一杯だ。 廊下から、声が聞こえてきた。「天道さん、やばいらしいよ」「20億の含み損だって。素人に600億任せるからだよ」「三條副社長も、見る目なかったね」 ——また、か。 もう慣れた。慣れたはずだ。 おにぎりを半分残して、席に戻った。 ◇ 午後3時半。大引け。 画面を見る。 レヴァンスト、終値でさらにマイナス1.8%。 含み損は、25億円に膨らんでいた。 ——私たちもショートポジションを持つ? 空売りして、下がったところで買い戻せば。
金曜日の夜。 六本木レジェンド倶楽部。 業界パーティの会場は、相変わらず眩しかった。シャンデリアの光が、磨き上げられた床に反射している。シャンパングラスが触れ合う音。低く抑えた笑い声。高級な香水の匂いが、空気に溶けている。 ——また、ここか。 数ヶ月前、初めて圭さんに連れられて来た時のことを思い出す。あの時の私は、何も知らなかった。この世界の構造も、自分の立ち位置も。 今は——少しだけ、見えるようになった。 でも、見えるようになった分だけ、息苦しさも増している。「美咲、大丈夫か」 隣を歩く圭が、小声で聞いてきた。「はい、平気です」 嘘だ。平気じゃない。 この1週間、大富グループの動きを追い続けていた。九条さんからの返信はまだない。白石凛の資料の違和感も、まだ解消できていない。 頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。「顔色が悪い」「……そうですか?」「ああ。無理するな」 圭の声が、いつもより柔らかい。 ——この人は、本当によく見ている。 私の小さな変化を、見逃さない。それが嬉しいような、怖いような。「三條副社長、お久しぶりです」「やあ、ご無沙汰してます」 圭が、近づいてきた男性と握手を交わす。私は一歩下がって、その様子を眺めていた。 こういう場での圭は、いつもと違う。完璧な笑顔。完璧な所作。完璧な会話。 ——仮面だ。 あの笑顔の下に、何があるのか。私には、まだ分からない。 ◇ パーティが始まって1時間。 圭は次々と挨拶に追われ、私は一人でシャンパンを片手に壁際に立っていた。 人の流れを観察する。誰が誰と話しているか。どんな表情で。どんな距離感で。 ——あの二人は、表向きは仲が良さそうだけど、目が笑ってない。 ——あの女性は、あの男性に気があるけど、男性の方は別の誰かを探してる。 ——あの老紳士は、さっきから三回も時計を見た。早く帰りたいんだろう。 こういうことが、自然と目に入ってくる。昔からそうだった。でも、それが「武器」だと言われたのは、九条さんが初めてだ。 その時——「久しぶりだな、天道美咲」 背後から、声がした。 低い声。聞き覚えがある。聞きたくない声。 振り向く前に、分かっていた。 大富龍平《だいとみりゅうへい》。 振り向いた瞬間、彼の顔が視界に入った。 相変わらず、整った顔立ち。
九条のオフィスは、相変わらずだった。 コンクリート打ちっぱなしの壁。使い込まれたル・コルビュジエのソファ。窓際に積まれた資料の山。かすかに漂う煙草の残り香。 1ヶ月ぶりに訪れたこの場所は、何も変わっていない。 ——私だけが、変わってしまったのかもしれない。「よう、久しぶりだな」 九条がソファから立ち上がった。いつものように無精髭を生やし、革ジャンの下には皺だらけのシャツ。だけど腕にはロレックス。このちぐはぐさは、もう見慣れた。「すみません、ご無沙汰してました」「忙しかったんだろ。600億の重さは、俺にも想像がつく」 九条がキッチンに向かう。コーヒーメーカーのスイッチ。カチッ。コポコポと水の音。 私はソファに腰を下ろした。革が軋む。体が沈み込む。 ——ここだと、息ができる。「で、何があった」 九条が振り返らずに言った。コーヒーの香りが、部屋に広がり始めている。「……何も、ないです」「嘘つくな。声でわかる」 ——バレてる。「初の大型投資判断があるんです」 言ってしまうと、肩から力が抜けた。「レヴァンストの追加買い増しを検討してます。でも、市場環境が読めなくて……」 コーヒーカップが、目の前に置かれた。白い湯気が立ち上っている。 九条が向かいのソファにどかりと座る。「見せろ」 私はバッグから資料を取り出した。昨夜まとめた分析レポート。数字とグラフがびっしり並んでいる。 九条がページをめくる。眼鏡をかけていないのに、目を細めて読んでいる。老眼なのかもしれない。聞いたことはないけど。 沈黙が落ちる。 パサ、パサ、パサ。紙をめくる音だけが、部屋に響いている。 その間、私は九条の横顔を見ていた。 皺が増えた。目の下の隈も、前より濃い。 ——何かあったのかな。 聞けない。私は弟子で、彼は師匠だ。「悪くない」 九条が顔を上げた。「え?」「この分析、悪くないって言ってんだ。むしろ、1ヶ月前より格段に良くなってる」 その言葉に、胸の奥がじわりと熱くなった。「ただ——」 九条が資料の一点を指差す。「ここだ。大富グループの動向を、お前は軽視しすぎてる」「大富……」 その名前を聞いた瞬間、背筋が冷たくなった。 大富龍平。あの六本木のパーティで、私に絡んできた男。 そして、レヴァンストの買収工作を見破った私のせ
朝、目を開けた瞬間から、胃が重かった。 カーテンの隙間から漏れる光が、白すぎる。 スマホを見る。7時12分。アラームの3分前。最近はいつもこうだ。体が勝手に起きる。眠れてないのに、眠れない。 布団から出る。素足に、フローリングの冷たさが沁みる。 ——今日で、ちょうど1ヶ月か。 シャワーを浴びる。お湯の音。ザー、それだけが耳の奥に響いている。 いつもなら何も考えなくていい時間。 でも今日は、考えてしまう。 600億。 その数字が、頭から離れない。 ◇ 三條グループ本社ビル。 エントランスに入った瞬間、空調の冷たい風が顔に当たった。無機質だけど、アロマオイルのようなかすかな匂い。 ヒールの音が、大理石の床に響く。コツ、コツ、コツ。 自分の足音なのに、他人のみたいに聞こえる。 エレベーターホールに向かう。すれ違う社員たちの視線を感じる。見てる。絶対見てる。 ——あれが、財界のシンデレラ。 ——600億任されて、調子に乗ってる。 ——素人のくせに。 何も聞こえてない。でも、そう言われてる気がする。 エレベーターのボタンを押す。ピッ。 沈黙。わずかな空調の匂い。 チン。 扉が開く。 ——良かった、中には誰もいない。 32階のボタンを押す。ピッ。扉が閉まる。シュン。 上昇、足元がふわっとする。エレベーター特有の、こんl感覚が前から苦手だった。 小さな鏡に、自分の顔が映っている。 目の下に、うっすら隈がある。コンシーラーで隠したつもりだった。 ——まあ、いいか。 誰も、そんなところ見てない。みんな、私の顔じゃなくて、600億という数字を見てる。 チン。 扉が開く。32階。 MISAKIシンデレラファンドのオフィス。 一歩、踏み出す。 カーペットが、ヒールの音を吸い込んだ。 ◇「天道さん、おはようございます」 声がした。冷たい声。 振り向くと、白石凛が立っていた。 東大首席。外資系証券出身。私より3歳年下。金融知識では、比べものにならない。 目が合う。合ってしまった。逸らせない。逸らしたら負けだ。負けるわけにはいかない。「おはよう、白石さん」 声が震えてないか。大丈夫だ、たぶん。「今日の日経朝刊、ご覧になりましたか」 凛が新聞を差し出す。その動作が、妙にゆっくりに見えた